





THE BEGINNING
漁師町に生まれる
秋田県の漁師町で生まれる。
父も母もまだ高校生で、母が私を産んだのは18歳のときだった。
父は秋田県男鹿市の出身で、かつて油田が出た土地を所有していた祖父母のもとに生まれた3兄弟の末っ子。
裕福に育ち、水産高校に通っていた。
母との出会いがどんなものだったかは、はっきりとは分からない。
たぶん、今でいう
ナンパだったんだと思う。
父は漁船を持っていた親戚の叔父を頼って漁師として働き始め、母は専業主婦になった。

A BLUE PIGGY BANK
小学校時代、お向かいさんと貯金箱の記憶
小学校時代、
お向かいさんと
貯金箱の記憶
小学校一年生のとき、
両親は新興住宅街に戸建てを建てた。
お向かいに住んでいた
母子家庭の親子と、
当時とても仲良くしていた記憶がある。
ある日、父が出張先のお土産を
買って帰ってきた。
かわいい貯金箱で、
お向かいの1つ年上の女の子と私に
1つずつ渡した。
私は水色が欲しいと言ったのだけれど、
その子も水色がいいと言って、父は私に黄色を渡した。
「私のお父さんなのに」
なぜその子のほうを優先するのか、と
とても寂しかったのを覚えている。
おそらく夫婦喧嘩ののちに、
水色の貯金箱が私の元にやってきた、
とにかく、
何かがおかしいと感じていた。
そしていつの間にか、
そのお向かいさん一家とは、
疎遠どころか絶縁状態になった。

THE DEPARTURE
中学2年、父の駆け落ち
中学2年のとき、父が駆け落ちをした。
その時の様子を見る→(Instagram)
そのタイミングで、
お向かいさんの女性と父に関係があったことを知らされた。
「知らないのは
あなただけだと思うから」と
親族が母に伝えたという。
小さな漁師町だったから、二人の姿はいろんなところで目撃されていて、本当に知らなかったのは母だけだったそうだ。
子どもの頃に感じた「何かおかしい」が繋がった。
保育園から中学校まで、ずっと同じ町で過ごしたが、中学2年で父の駆け落ちのタイミングで神奈川に転校した。
当時の私は言いたいことを飲み込むタイプで、「これを伝えるとこの人はどう思うだろうか」と先回りをして言葉を選んでいた。

ONE PHONE CALL
高校2年、母にかかってきた1本の電話
高校2年、
母にかかってきた
1本の電話
高校2年のとき、1本の電話が鳴った。
「お宅のご主人と、うちの妻が不倫関係にあると思う」という内容だった。
電話の主の男性と母は
そこから一緒に証拠を集め、
父の不倫が発覚する。
母は離婚を申し出て、離婚が成立した。
そのとき父は、弟だけを連れて行きたいと言っていた。
ついていきたかったわけではないけれど、とてもショックだった。
私は必要ないの、と。
家庭裁判所にしばらく通った日々のことも覚えている。
そうして、その電話の主だった男性と、
母は再婚することになった。

INTO THE NIGHT
一人暮らしと、夜の世界
再婚と同じタイミングで、
一人暮らしを始めた。
18歳、進学を止め、
とにかく稼ぐことだけ考えた。
再婚相手はとても良い人だったが、相手の連れ子(1つ年下の女の子と2つ年下の男の子)と一緒にいたくはなかった。
思春期でもあった。
勝手に不動産の契約を進め、
最後に「一人暮らしを始めるから、
連帯保証人になってほしい」
と母に頼んだ。
突然のことに、母は取り乱して泣いた。
新しい父になった人は
「本人がやりたいと言っているんだから、応援したほうがいい。時々帰ってきたときに、好きな食べ物を作ってあげて『お帰り』と言ってあげたらいい」と言ってくれた。
まずはスナックで働き始めた。
頭を使う世界で、女の子同士のいざこざをいかに避けつつ、お客様をいかに惹きつけられるかを毎日考えていた。
新聞を購読するところから始めて、
毎日読み、ニュースを見て、
自分の限界を超えるほど酒を浴びた。
危ない目にも何度もあった。
当時はここが居場所だと思っていた。
他の女の子たちが真正面から男性に気に入られようとする中で、私は違うやり方を選んだ。
相手の、人としての資質を見て、
人として好きになってもらうには
どうしたらいいかを考えた。
周りが言いづらいことにも、
真正面からぶつかっていった。
毎日、とにかく生きていればいい。
そう思っていた。
そうして、チーママになった。

A BROKEN PROMISE
21歳、婚約と破談
21歳のとき、婚約した。
9歳年上の男性で、「こんなに私を大切に思ってくれる人がいるんだ」と初めて思える相手だった。
話はとんとん拍子に進み、
あれよあれよという間に婚約した。
彼にはすでに持ち家があって、
経済的にも安定、
優しいお母さんもいた。
それでも
どうしても家庭に入る気になれず、
何度も別れ話を切り出したけれど
受け入れてもらえず、
最後は逃げるような形で
終止符を打った。
その後しばらくは、昼の仕事へ。
仕事の条件は、働き始めるときに必ず
「ここで何を得るか」を決めて
入社して、体得できたらやめる、
を繰り返した。
昼の仕事をしながらも、
歌舞伎町や千葉の成田など、
キャバクラ新店オープンのたびに
女の子の教育係として依頼を受け、
サポートを行った。

THE TURNING POINT
8回の入退院、そして転機
21歳の終わりに、初めて
「自然気胸」という病気になった。
そこから20代の間に、
8回も入退院を繰り返すことになる。
ICUにも入った。
なぜ同じことを繰り返すのか、
なぜ同じ病気になるのか、
なぜ私だけがこの病気にならなければならないのか。
本当に苦しい時期だった。
ある日、
友人が買ってきてくれた一冊の本に、
「同じことを繰り返すには理由がある。感謝が足りない」
と書いてあり、衝撃だった。
当時の私は、周りに対して感謝を持たずに生きていた。
その事実を、
突きつけられたようだった。
そこから、生き方を変えなければと本気で取り組んだ。
自己啓発の本を読み漁り、
食べ物に気をつけ、
生活習慣を見直した。
最初に手をつけたのは
「言葉のクリーニング」だ。
ネガティブなことを言わない、
ポジティブな言葉だけを使うと決めて、貪欲に取り組んだ。
あの頃一緒にいてくれた人たちは、
ずいぶん苦しかったと思う。

THE ONE I CHOSE
27歳の出会い、29歳の結婚
27歳の出会い、
29歳の結婚
そうして、27歳のときに今の夫と出会って29歳で結婚した。
今まで付き合ってきた彼氏とは、
まったく違うタイプの人だった。
親友から
「今までと違うタイプだからいいんじゃない」と言われた言葉が、
妙に印象に残っている。
この人と肩を並べて社会に立ち向かう
「同志」のような存在だと感じたのを
覚えている。
彼は私の味方であり、私も彼の味方。
今思えば、
最初は氷のようなところがある人
だったけれど、
氷が少しずつ溶けていくような
感覚があって、それは手応え、だった。

A PLACE OF MY OWN
サロン開業
結婚後、子宝に恵まれなかった。
OLを辞め1年間専業主婦を経て、
サロン開業。
子どもができたとき、
「おかえり」と言ってあげられるお母さんになりたかったからだ。
それでも子どもが来なかったので、
仕事に没頭した。
団地サロンから横浜駅東口に
サロンを構え、
翌年、横浜駅西口にサロンをオープン。
その半年後に妊娠。
娘を妊娠するまでのことを
記録しておく。
あのとき「欲しくても手に入らないものがある」ことを知った。
それまでの私は、努力とお金があればほとんどのものが手に入ると思っていた。
だけど、自分の力ではどうすることもできないものがある。
妊娠とは、子どもとは、
そういうものなんだなと
初めて思ったことを、
今でも時々思い出す。
タイミング、っていうのがある。
自分で招き入れたのかどうかは
定かではないけれど、
タイミングがやってきて
サロンを閉じた。

BUILDING A SCHOOL
経営塾立ち上げ
サロンで取り扱っていた
耳つぼジュエリーやカウンセリングを
講座として教えていたが、リピート受講が多かった。
悩みをヒアリングしては、
解決するための講座を開いた。
その後、依頼され個別コンサルティングをスタート。
やりがいはあった反面、
正解が「私」になってしまって、
依存関係ができると、
それはそれで苦しかった。
グループコンサルの道を歩もうと
スクールを立ち上げ、
サロン業から引退。
サロンはやり切ったという感覚があった。
今から十年前の出来事になる。
娘が2歳の時だった。
娘は3歳半まで、一日も休むことなく2時間おきに夜泣きをしていたので、朝まで眠れた日がなかった。本当にしんどかった時期。

BECOMING MYSELF
今の私につながる出来事
コンサルには、
人の人生に関わる喜びがある。
サロンもお客様の人生に関わる仕事だけれど、コンサルはまた別のやりがいがあって、もっとグッと相手の人生に踏み込んでいく。
種を植えては、芽が出るまで栄養と水を与え、時には雑草を抜き、土を耕す。
土壌は、
日を追うごとに強くなっていったと思う。
私の中にある基盤?土台?が、しなやかに強くなったと感じるのは、2人目を出産したときのことだ。
当時、女性起業家や女性経営者といえば、キラキラした世界という印象が強く、イメージを壊さず、作られた世界の中に自分を当てはめていくような感覚があった。
だから、子育てをしている生々しい自分は見せられないと思っていた。
が、実際はそう思い込んでいたのは私で、あれは鎧だった。
生後間もない2人目の息子を抱えながら、ありのままの自分を隠した状態で、相手の人生に関わることなんてできなかった。
だから、ありのままの自分で接した。
さらけ出すには、すごく勇気がいった。
できていない自分も、できない自分も全部受け入れてさらけ出して、それでも自分を選んでくれる人がいるのかと不安になった。
けれど結果は違って、
リアルでありのままに仕事をするようになったら、
塾生たちの反応はとても良かった。
あの頃から、
一人の女性として、一人の母親として、
より深く相手に関われるようになったと感じる。
2人目の妊娠と出産がなければ、
今の私はいなかったかもしれない。

TODAY
最近の私?
正直、小さなことで悩んでなんていられない。
娘は中学生となり、絶賛思春期の女子。
難しい年頃ってあるんだと思う。
息子は、男の子のかわいさとわんぱくさ、理解不能なことばかりで、それがまた面白いけれど、なんだかんだと日常は色々ある。
母として、悩むことも多いし、
立ち止まる日だってある。
妻であり、母であり、
会社の代表であり、
経営塾の代表であり、
いろんな自分を味わいながら
生きている。
20代で入退院を繰り返したせいか、
いつも「死」が隣にある。
朝、目が覚めれば生きていると感じ、夜、眠るときにも生きていることを感じ、日常の中でもふと、死を感じる瞬間がある。
だから何かがあるって
わけではないけれど。
人生を大切な人と過ごすために、大切な人たちが幸せであるように、関わる人たちが幸せであるように、私ができることをやっていくだけ。
私にしかできないことがあるから。

WHY I STARTED
今の活動を始めたきっかけ
今の活動を始めた
きっかけ
個別のコンサルは、依存度が高くなる。
正解が「私」になってしまって、
その人が自分で考えて立てなくなる。
それは、本人にとって良くない。
だからグループコンサルに切り替えた。
一人ひとりに答えを渡すのではなく、
自分で答えを見つけられる人を育てる。
今の経営塾は、そこから始まっている。
WHY I SHARE
発信するようになった理由
発信するようになった
理由
もし今、
一人で抱えて悩んでいる人が
いるのなら、
私が助けてあげられると思ったから。
かつての私がそうだったように、
一人で苦しんでいる人に、
私の経験が届くなら届けたい。
私なら助けてあげられるから。
MY MISSION
現在の想い
大切な人たちを、
守りたい人たちを、守れるように。
私のミッションは
「守るべきものを守れる女性になる瞬間までプロデュース」
これまでも、これからも。
そのために活動していく。
